北方心泉について

法句寺を設立した「北方心泉」とは?

北方心泉は、真宗大谷派、常福寺十四代目住職で明治時代を代表する書家の一人です。 本名は「蒙」ですが、「心泉」又は「月荘」「小雨」「雲迸」「文字禅室主人」「聴松閣主人」などを用いました。

東本願寺の布教師として中国上海に渡り、当時流行していた北派書風に一早く学び日本に紹介したことは有名です。又、中国古来から存在する金属器・石刻に刻まれた文や絵を研究する学問「金石学」に関心を持ち、後に書に影響しました。書風は篆隷の書を行書や草書のように自由に書くという意味を込め「篆草合体の自由奔放」と称され確立。このことで心泉は、この時代の書家の中でも一頭地を抜いた存在になったのです。 

  • 嘉永3年(1850):4月28日に加賀国の金沢(現在の石川県金沢市)の常福寺の住職の子として誕生。
  • 明治元年(1868):常福寺14代目住職となる。
  • 明治10年(1877):東本願寺支那布教事務掛となり、留学生を引率して清の上海に赴く。清に滞在中に胡鉄梅ら清の文人と交流を深め、金石学を学ぶことで書に影響を受ける。
  • 明治32年(1899):再度清に渡り、南京に金陵東文学堂を設立するが、義和団の乱により帰国。 延べ15年を大陸で過ごした。その後「法句寺」を建立する。
  • 明治35年(1902):東本願寺の改革運動に加わったことにより、住職を罷免され僧籍からも除名される。 しかし、後に名処分は取り消される。
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